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2012年02月25日(土) 
開港前は 半農半漁の寒村だったと言われている横浜村。

しかし、そこには三方を海に面した洲干島弁天社という
鎮守の森がありました。

開港資料館蔵の絵や写真があります。
クリックすると大きくなるので、ぜひご覧くださ~い♪
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/093/093_03.html

わずか150年あまり前、 
「海神の住居するという 竜宮もかくやと思うばかり」
と讃えられた鎮守の杜だったそうです。
 
                       

この写真は、開港前の横浜の絵図ですが、
左の山の先がちょっと回りこんでいるのがわかるでしょうか・・・
ここが横浜村であり、洲干島だったのでしょう。

潮の干満によって 松は海水に浮沈し・・・と、
「横浜厳島社務所発刊の書」に書かれているのですが、
洲干島は、潮の満ち引きによってその姿が変化したそうです。

山々が連なる 古の横浜・・・
元々日本全体が山岳地帯であり、各地域もまたしかり・・・

「横浜の伝説と口碑」(横浜郷土史研究会・昭和4年刊)には、
こんな一文があります。

~開港以前の横浜の姿を神奈川の台場から眺めてみると、
あたかも蒼い龍が海波に蹴って躍り出たかのやうに見られる~
として、龍の首から尾に至るところに寺社が建てられていることを記している。

突然 スタートのその1に戻りますが、K・Nさんから聴いたお話の
『青龍弁財天』様があるのは、 この絵図の左の山であります。
(この山が ↑の解説の 神奈川の台場から眺めた蒼い龍=龍脈です)

私の訪問先の途中にあるといいましたが、その訪問先は「滝頭」という場所。

  山を削ったので、危険地域が指定されています。
龍脈でいうと、龍の頭(又は首)の部分に位置する場所らしい(その字があらわしている通り)

そして、『青龍弁財天』様があるのは堀之内  

横浜の古刹「宝生寺」があり、横浜という地名が初めて出てくる古文書を所有しているそうで、
龍脈でいう喉の部分に位置するお寺。

↓ 宝生寺 東密(京都の東寺を本山とする密教)の関東最初の道場だったそう
(本堂には金色の大日如来像が安置されている)

  


【K・Nさんのお話:】(以下Nさんとする)
Nさんのお祖父さんは、九州から横浜の地に出てこられ
ご縁あって 堀之内町に住む Nさんのお祖母さんとご結婚。

昭和の初期に、祖父母さま 滝頭からの山を拓いて開墾が始まる。
山からは湧き水がいで、水をなみなみとたたえた大きな池もあったそう。
その一部を埋め立てて、道をつくり、
Nさん(K・Nさんのお祖父さんが)の家も建てたそうだ。

お二人には女の子が生まれ、あるときその子が、
高熱を出しお乳を飲まなくなってしまったそうだ。
近所の医院の先生に往診をしてもらうも 
原因がわからず一向によくならない。。。
その地域で有名な 「拝み屋さん」に来てもらうことになった。
(この拝み屋さんは当時 かなり有名だったらしく・・・
我が家の親戚もよくみてもらっていたと聴いたことがある) 

 

その拝み屋さんは、Nさんのお宅に入ると 声が一変して・・・
「誰に断って この土地に移り住んだのか。

ここの池には、古くから弁財天様が住んで居られるのだぞよ。

・・・あかりを灯して祀るならば守護するが、、、誓えるか?」
と、そう云ったそうな。 

 

Nさんの祖父母さまは、「お誓いします」と言ったところ、
その拝み屋さんはバタッ と倒れて・・・

その後、お祖母さんと赤ちゃんの周りを3回まわったそうな。

拝み屋さんとの約束の日、元気になった女の子のお母さん

(Nさんのお祖母さま)は、 灯りを持って池の周りを歩いて行くと、

ある場所で足が進まなくなってしまった。
それから、指定された日の旧暦の日に 

お祖母さんが動けなくなってしまったその場所に、

白い蛇が現れたそうな。

そういうことがあり、その場所に小さな祠を建てたとのこと。
そして灯りを点し、毎日きちんとお守りをするようになったそうだ。


その後、祠の近くにもお堂を立て、お供物を供え 

Nさんご一家は 、今も『青龍弁財天』様を大切にお守りされています。

日本むかし話のような この物語は、
私よりも歳が下のK・Nさんの祖父母さまがご経験したことです。
昭和の初期のお話・・・そんなに大昔のことではありません。

それから、ハマの日本橋の芸者さんや ご近所のお婆ちゃん達が
巳の日には 大勢お参りに来られたそうです。
Nさんのお祖母さんは、開墾前からあったその地の井戸水で
参拝の方々にお赤飯を炊いてふるまったそうです。

その当時の写真を 一緒にお話を聴きに行った
オトモダチの冬桃さんと見せていただきました。
 
水がたたえられた池の周りに 沢山の登り旗が掲げられ 
大勢の参拝者がお念仏を唱えたり 踊っている写真・・・

 

青龍弁財天様・・・それは、この地を太古の時代から守り続けて来た
目にはみえない存在なのかもしれません。
横浜にも そしてどの地にも、そのような存在があるのかもしれません。
故郷を思う私たちの気持ちは そんな目には見えない存在とも
魂で繋がっているのかもしれません。


弁財天様の前に 今も残る池。

昭和40年代の下水道工事で 水はもう湧き出てこなくなったそうです。
Nさんは、この弁天様の周辺は 昔のままの景観を残したいと、
日々丹精込められ手入れされています。
周囲には木々が生い茂り、時折 狸やアライグマなどもでるそうです。

宝生寺の裏山は、神奈川県の自然保護森林地域に指定されています。

 

南区の「七つの丘ルート」の 堀之内の丘に『青龍弁財天』が取り上げられています。

http://www.city.yokohama.lg.jp/minami/60profile/62m…20001.html

 
★青龍弁財天さまは、Nさんの敷地内におまつりされています。
お参りする際には、Nさん、ご近所にご迷惑がかからないよう 
静かに訪れましょう。
 
オトモダチの冬桃さんとご一緒に行きました。
『冬桃さんのブログ』
 
☆おまけ:よこはまの民話より
●竜の影法師
 
 むかしむかし、堀ノ内の宝生寺の池に、大きな竜がすんでいました。竜は池を抜け出しては境内の千年松に登り、海を眺めたり、満月の夜、自分の巨大な影法師をつくったりして楽しんでいました。 ある日、池の縁から「寺を建て、多くの人々を救いたい。竜様、お守りください」という祈りの声が聞こえてきました。あまり熱心だったので、竜はその声の主の夢枕に立ち「その願い、かなえよう」と告げました。この竜の加護によって建てられたといわれるお寺が、今でもいくつか残っています。それらは竜の影法師の範囲内にあり、頭は磯子区滝頭の密蔵院(磯子の金蔵院とも)、宝珠を握る右手は磯子区岡村の竜珠院、尻尾は中区元町の増徳院といわれています。横浜が発展し、宝生寺の近くに堀割川ができると、ちょうど影法師の首が切られたような形になってしまったため、いつのころからか竜はいなくなってしまいました。その後、千年松も元気がなくなり、昭和の初めには枯れてしまったということです。
 
このお話は・・・もしやもしや~~~(^^)
 
 

閲覧数5,929 カテゴリ横濱物語 コメント0 投稿日時2012/02/25 22:01
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