書き込み数は65件です。 | [ 1 2 3 4 5 6 7 ] | ◀▶ |
池波正太郎の「鬼平犯科帳」というと、TVでは中村吉右衛門が「定番」ということになっていて、最も「鬼平」のイメージを伝えているとして、TVが原作を読ませ原作がTV、ビデオを見させるという果てしない「鬼平現象」を続けているが、そもそも池波は吉右衛門の父親の八代目松本幸四郎(後の白鸚)をイメージして「鬼平像」を創りあげたということは「よく知られて」いる。最近CATVで先代幸四郎の「鬼平」を続けて観ていると、現在の吉右衛門が「鬼平」の長男、辰蔵役を演っていて、そのひょうきんな息子振りが今の「鬼平」の若い頃だという気にさせて、「本所の銕」とも重なり合 … [続きを読む] |
母娘で英語に来ている6歳のMちゃんは、母親がレッスンする間隣の部屋で漢字の「書き取り」をやっている。しばらく見ていると左手で器用に漢字を書いているが、左手なので書き易いらしく時々「左から右へ」の線を「右から左へ」と書いている。「もっと書き易く」するために、鉛筆を右手に持ち替えさせて線を「左から右へ」書かせると、何とか「書いている」。鉛筆だからいいけれども筆で書くときには線の流れが「逆毛」になって、書けない、だろうと思う。小学校の先生は「それでもいい」とMちゃんに言ったそうだが、母親には将来筆を使うときに困るだろうから、左で書いても … [続きを読む] |
先日長女が結婚をし、新婚旅行のモロッコから「サハラ」の砂を持ち帰ってくれた。それは思ったより細かくて、そのまま「砂時計」に使えそうな「砂」だった。砂漠の砂が美しい映画で今でも忘れられないのは「アラビアのロレンス」と「イングリッシュ・ペイシェント」だが、いずれもアメリカ映画でいわゆる「欧米人」が「砂漠」に近づく様子を描いているが、同じ近づくにしても「シェルタリング・スカイ」ではもっと「近づいて」いて、砂漠に「のめりこんで」いく「悪夢」を描いている。遠く日本から、砂漠を「美しいもの」と「想う」と同時に、「妖しさ」を想わないではいら … [続きを読む] |
古本屋で古い本の背中を眺めていると、確かに「古い」ことが書かれていて「懐かしい」ことが多く思い出されて一種「幸せ」を感じるけれども、新刊本が並ぶ大きい書店で新しい本だけの背中を眺めていても「懐かしい」本はあって、その本が自分の「過去」に関わることと繋ぎ合わされると、古本屋にいるような「懐かしい」気分にさせられる。「古い」ことはもう動かしようのない「過去」のことであり、動かない「過去」が確かに自分を「懐かしく」させて、「現在」起こっていることや「未来」に起こりそうなことが自分を「不安」にさせるのに比べて、気分が「落ち着く」という … [続きを読む] |
たまたま関係しているマンションの住人のうちにいわゆる「悪がき」がいて、マンションの地下室や自転車置き場で屯して煙草を吸ったり、道を通りかかる人に携帯や金を貸せだのと言ったりで、親も管理人も「お手上げだ」ということを聞いた。「大人」であれば即「公安」の問題で「犯罪」の兆しとして処理するのだろうが、「少年」だからどうにもならない、と。日本のように「穏やか」な国では、「大人」が、「子ども」に「優しい」配慮をしているように見えるけれども、「親」や「大人」が子どもに食事や水を与えるように、確かな「愛情」や「友情」を与えていなければ、それ … [続きを読む] |
阿佐田哲也によれば、「十四勝一敗の選手を、一勝十四敗にすることは、それほどむずかしくないんだ。ところが、誰とやっても九勝六敗、という選手を、一勝十四敗にすることは、これはもう至難の技だね。」だそうで、つまりはいつも「九勝六敗」の選手が「最も強い」とのこと。博打の「上位」レベルの話である。決められた期間(時間)にたまたま運がよくて勝ち続けるということは、普段の生活でもよくあることで「瞬時」の幸運は私たちに無上の「慶び」と「自信」を齎してくれるけれども、長続きはしない。それは、私たちの日常は特に「期間」を決められているわけではなく … [続きを読む] |
小林旭を実際に見たのは、小学生のとき香川の高松で、当時斬新なデザインだと話題になった、市内のガソリンスタンドの前をたまたまバスで通りかかったとき、皆が騒ぐので外を見ると、日活のロケが行われていて、あの小林旭が立っていた。残念ながら通りを隔てて白いスーツ(?)の背中からしか見えなかった。当時人気絶頂の「渡り鳥シリーズ」のようだったので浅丘ルリ子もいるかと思って探したけれどもいなかった。後で観るとそのときの相手役は、笹森礼子だった(と思う)。世に、石原裕次郎と小林旭をよく比較するし、小林旭も裕次郎を「意識」しない筈はなかったと思うけれ … [続きを読む] |
「桜木町」という名前も悪くはないが、そこから横浜に向かってバスに乗ると「紅葉坂」、「雪見橋」、「花咲橋」とまことに「心地よい」名前が続き、「高島町」となると急にビジネスライクな「音」になる。街の名前は、その場所の「事情」と「理由(わけ)」持っていて、高島町という名前がなぜそこに残っているか調べれば納得するけれども、その前に私たちの会話やバスで流れる「音」に、まず気分よくさせられると、その街に住んでいることがうれしくなる、のは「個人的な」ものだろうか。その街に住んでいると会話の中で使う土地の名前が「音」として飛び交い、人と話して … [続きを読む] |
数年前にはまだ東京で仕事をしていて、会社の帰りに銀座6丁目にある「スウィングシティー」というジャズクラブによく寄っていた。あの頃、世良譲や北村英治などはもう「仕事」というよりは客と共にその夜を「酔いしれる」というような時間の過ごし方をしていて、そのときには食べるものも飲むものも美味く、そして流れるジャズも...「陶然」というのはこういうことかと思ったものだ。ある夜、ジョージ川口が演っていて、リクエストをしていいということなので、アート・ブレイキーの名曲「チュニジアの夜」を求めた。「オ!演ろう」と言ってくれて「激しく」、「完璧に」 … [続きを読む] |
東京で仕事をしていたとき、高いビルの会議室で会議に疲れ、ふと外に目をやると、遠くを見ているときはいいけれども、足元を見るとそのビルより低いビルの屋上が見えて、ことごとく薄汚れた灰色のコンクリートの肌を見せていて、気分が滅入ったことを思い出す。下から見るビルは、玄関もよく掃除がされて、ガラスも陽の光をよく撥ね返すほどに磨かれていて、訪れる人には不快を与えない。これが都会だと思わせるが、高い建物が多くなるにつれて、ビルは上からも見られるものなのだということにもう少し配慮されれば、都会の景色ももっと気分がよくなる、ように思う。おそら … [続きを読む] |
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