[その2]本渡諏訪神社の大蘇鉄(そてつ) ――横浜でばたばたして天草の記憶が失われないうちに天草紀行再開。キリシタンの島であえて神社にお参りします―― [その1]→http://sns.hamatch.jp/blog/blog.php?key=34275 天草の玄関口 ――前回書いたとおり、海に面しているからどこでも外に向かって開いているのですが、 飛行場、港、バスターミナルがある交通の要所としては―― 天草下島の本渡(天草市)にあるお諏訪さま。 子ども時代を過ごしたダーリンの遊び場だったそうで 年に一度の「本渡の市」では、郷土芸能のほか、 往時は見世物小屋やサーカスまで出るにぎわいだったとか。 古来、天草地方は島ごとに治める武士団がいて 鎌倉時代以降、幕府から「地頭」として任命されていました。 ことわざ「泣く子と地頭には勝てぬ」の どんな無理難題や横暴を言われても 民が「従うほかない」とあきらめたという コワいコワい地頭です。 ところが、島の大らかさからでしょうか 天草では嫡男だけでなく、次男以下や女子にさえ家督相続が行われていたようで、 どんどん分家が増えていきました。 貞永2(1233)年、本砥(本渡)の地頭職となったのは原田種直の娘、播磨局。 「大蔵太子」と名乗ったこの方は、たいそうな女傑だったそうで、 文永11(1274)年・弘安4(1281)年の二度にわたる元寇襲来に 水軍を率いて出陣し、めざましい武勲を立てました。 元寇のとき、神風を起こして国を守ったのが お諏訪さま、建御名方神(タケミナカタノカミ)と云われています。 大蔵太子はこれに感謝して、元寇の3年後、弘安6(1283)年に、天草の総鎮守として 長野県の諏訪大社(本社)から諏訪大明神の勧請を受けて建立したのが 本渡お諏訪さまのはじまりだそうです。 その後、天草・島原の乱が起こります。 島は戦禍に巻き込まれて荒て果て、お諏訪さまもキリシタンに焼き討ちされました。 戦後、天草は幕府の直轄地(天領)になり、遣わされた初代代官、鈴木重成公が 人々の心の安定のため、寛永20(1643)年、お諏訪さまを現在の場所に再建。 さらに、島の復興のため、8月1日、お諏訪さまの大祭に農具市を開きました。 これが発展したのが、現在につづく「本渡の市」のはじまりです。 ……と、こんなお話をわたしたちが境内をウロチョロしてたところに たまたま帰っていらした宮司さんがていねいに聞かせてくださいました。 その宮司さんが 「そうそう、ここで珍しいものといえばね……」 と教えてくださったのが、この大蘇鉄。 樹齢約300年、現在は樹高7m超の2株は、 国の天然記念物にもなってます。 ソテツは、恐竜やアンモナイトが栄えていたジュラ記(2億年前)の地球上に繁茂していた 裸子植物でも最古の品種で、植物版「生きた化石」です。 成長は遅く、1メートル伸びるのに40~50年かかりますが、極めて丈夫、そして硬いのです。 島に赴任してきたお侍さんが島に生えているソテツをノコギリで切ろうとしているのを見て 島の子どもたちが笑ったそうです。 何しろ歯が立ちません。そのくらい硬いわけです。 では、ソテツを倒すにはどうしたらいいかというと、 毎日毎日、罵詈雑言を言って聞かせると枯れるんだそうです。 ほんとのところはわかりませんが、とにかく切ろうとするのが間違いなのでしょう。 宮司さんによると、ここ本渡諏訪神社では、この大蘇鉄に毎日 「元気になれよ、大きくなれよ」 「りっぱだな、いい子だな」と聞かせてあげているそうです。 「子どもと同じです、ソテツも『褒めて育てる』んです。 だから、うちの子はホラ、蘭が寄生してね 花を咲かせてた時期は実にきれいでしたよ。 これは、たいへん珍しいですよ。 弱い木、小さい木だったら枯れてしまうでしょうが、 これだけ丈夫で大きいからね」 大蘇鉄の蘭の花は見逃したけれど、 ちょうど、わたしたちが訪れたときは 雌花が咲こうとしていました。 年代物の大蘇鉄が枯れるとき、その家も滅びるという言い伝えもあるそうです。 生き物たちは 太陽や雨、風、大地に見守られて、 命を育んでもらっています。 ソテツも、人も、同じですね。 見守り、そして見守られて、成長していく。 ダーリンの子ども時代を育んだ諏訪神社の境内で プリミティブな「成長」を目撃しました。 |