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2011年01月20日(木) 

 
――年をまたいでしまったけど、
天草紀行、もうちょっと続けます
今回は子守唄の話――

[その1]→http://sns.hamatch.jp/blog/blog.php?key=34275
[その2]→http://sns.hamatch.jp/blog/blog.php?key=34459
[その3]→http://sns.hamatch.jp/blog/blog.php?key=34708

島原・天草の乱のあとの復興については「その2」でもちょっとだけふれましたが、
乱の前と後でいちばん大きく変わったのは、天草が天領(直轄地)になったことです。

天草は島ですが、海だけでなく山の恵みも豊かでした。

樫(カシ)や椎(シイ)の天然の美林が残る福連木地区の国有林は
現在「郷土の森」に指定されています。
天草特産のハナカガシは品質がよい樫の木で、
槍の柄や歌舞伎の拍子木として最高級品。
その山々を縫う渓流は熊本の名水百選に数えられています。
また、天草は優れた陶石の産地としても有名で、
慶長年間(1596~1615)にはすでに陶磁器が生産されていました。
この天草陶石を平賀源内は「天下無双の品」とほめたたえ、
有田焼のほとんどは天草陶石が用いられています。

文字どおり、「宝の山」。
 
これが官山(幕府の山)になり、
福連木地区の民は出入りを禁じられてしまったのです。
木を切り出すことはもとより、
枝葉(柴)を刈ることすらできなくなりました。
稼ぎを奪われた民は経済的に苦しい生活を強いられ、
十にならずの子どもたちが、
球磨地方の人吉の「だんな衆」と呼ばれる地主へ奉公に出されました。
奉公といっても、給金が出たわけではありません。
ごはんを食べさせてもらえばOKといういわば体の良い口減らしです。

ちなみに、司馬遼太郎は『街道をゆく』で
人吉を「日本でもっとも豊かな隠れ里」と記しています。
石高2万2000石の人吉藩は、
霧が濃い山間に幕府の目を欺いて隠し田をつくり、
実質10万石の収穫があったといわれます。
さらに収穫を隠すため、米で焼酎をつくったのが、
球磨焼酎のはじまりだとか。

島を遠く離れた内陸の地で、少女たちの仕事といえば子守り。
一説には、福連木の娘たちが歌った子守唄は
「五木の子守唄」のルーツといわれ
毎年11月の第一日曜に「福連木子守唄まつり」が行われています。
 

多くの子守唄は、赤ちゃんをゴキゲンよく遊ばせたり、眠らせたりするものですが、この子守唄は違います。
「子守りはつらい」
「故郷を離れ、両親と会えないのはつらい」
と歌う嘆きの歌、いわば少女たちのカタルシス。

福連木の子守唄
 
ねんねこばっちこは
守子の役目 そういうて
寝らきゃて らくをする

おぶって寝かすのは

子守りの役目 そう言って

寝かしつけて 楽してるわ(誰かが) 

 
     

 

おどま盆ぎり盆ぎり

盆から先きゃ おらん

おっても ぼんべこも

きしゃされず

わたしはお盆まで、お盆までです

お盆のあとは この家にいません

いたって きれいな晴れ着も

着せてもらえないし

 
 

おどんが死んだときゃ

だあが泣いてくるきゃ

山の からすと親様と

わたしが死んだら

誰が泣いてくれるかしら

山のからすと父さん母さんかしら

 
おどんが死んだときゃ

大道端いけろ 上り

下りにゃ 花もらう

わたしが死んだら

往来の道端に埋めてください 上る人

下る人から 花をあげてもらえるから 

 
  

花はたつつちゃ

しばん葉はたつんな

椿 つつじの 花たてろ

花は立てても

枝葉(柴)は立てないで

椿やつつじ(きれいな)花を立ててね

 

(訳は筆者、まちがっていたらごめんなさい→ご指摘ください)
 
 
ところで、病人・老人・子どもといった「弱者」というカテゴリーをつくったのはカール・マルクスでした。
共産主義のめざす階級・格差のない「完全平等」が
生産力・生産性の有無によって、人間を区別したのです。
これは皮肉なことです。
人生では誰もが、子どもにも病人にも老人にもなります。
だけど、子どもでも病人でも老人でも
「あなたはあなた、わたしはわたし」それは変わりません。
そんな人生の1コマをカットアウトして、生産性によってカテゴリー分けされ、
そこから、「生産力にあわせた報酬」という基準が生まれます。

逆に一生ずっと病人・老人・子どもでいるわけではありません。
わたしたちは人生のなかで、
誰かのサポートを受ける時代と
誰かをサポートする時代とをくり返しています。

福連木の子守唄には
「子どもたちが生産性を求められたらどうなるのか」
という現実が見え隠れします。

少女でありながら自分の死や弔いを想像する
死後に大切にされることを夢想する

死に近づくことで、逆に強烈な生への欲求もまた感じます。

誰かにサポートを受ける時代、
育てられるシーズン、養生するシーズン、介護されるシーズンは
なぜ、何のために人生にあるのでしょうか?
もしなければ、人間はもっと幸せでしょうか?

実際、ギリシャ神話に登場する神々の解釈では、
老いたり病いになるより、早く死を迎えて
永遠のやすらぎを得ることが幸せ、であるようです。
神に「望みを叶えてやろう」と告げた人間が、
翌朝、眠るように死んでいるというエピソードもいくつかあります。
その逆に、愛人になった人間の男を愛するあまり
ゼウスに「ずっと生かしておいて」と頼んだ女神が
うっかり「若いままで」と頼むのを忘れて
愛人が老いさばらえていく姿にうんざりして捨ててしまう
というひどい話もあります。

今、自然の豊かな美しいこの島で、
かつてそこにあった、人々の悲哀や嘆きに思いを馳せながら、
ここでこの恵みを分かち合う幸せと感謝を感じずにはいられませんでした。


閲覧数1,638 カテゴリこころの旅 コメント0 投稿日時2011/01/20 21:07
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