わたしが、高校生の時、 ヘミングウェイの 『日はまた昇る』 を 文庫本で読んだ。
大久保康雄訳 と 谷口陸男訳 とを比べながら。
谷口訳は、全体を通して、正確な訳だと思った。 しかし、 『老人と海』 を大久保訳で読んで、それに慣れていた 私には、ものたりない文体だった。
大久保康雄訳 を読んでいくと、
闘牛見物で、主人公達が、 望遠鏡を出したり、双眼鏡を出したり、眼鏡を出したりする。
物語の最初、半ば、後半とで、出す物が違うのである。
ここで、大久保訳は、学生に下訳をさせ、それを大久保が 大久保の文体に統一していったのだと想像できる。
しかし、最初から最後まで読み通すことはなかったのだろう。 最初から最後まで読み通せば、 物語の場面によって、
望遠鏡を出したり、双眼鏡を出したり、眼鏡を出したり
という間違いに気づいたはずだからだ。
谷口訳では、すべて、 「双眼鏡」 と訳されている。 後に、ペイパーバックで英語の原文を読むと、 「glasses」 と書いてある。 「望遠鏡」 という訳は明らかに間違いだ。
眼鏡をだしたからといって、闘牛見物の役に立つわけもないのだから、 「双眼鏡」 以外にはありえない。
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